竹頭帖「八月十五日」

「八月十五日」

 八月十五日の敗戦記念日が来る。もう十三年も歳月が過ぎたかと、いまさらながら烏兎匆匆の感が深い。
 私は當時、中島飛行機付属病院の院長として、田無の工場付属の病院を建設中であった。ほとんど出来上がって、手術室にガラス戸を入れるばかりになって、昭和二十年を迎えると、爆弾が降り出した。そして新築の病室は、海軍の對空機関銃兵が占領し、病院の裏庭には、機関銃がすえつけられた。
 左手の畑には、陸軍の高射砲隊が陣取っていた。一萬メートル以上にはとどかないということであった。八月までたびたび田無町は一トン爆弾をうけた。工場や病院には、幸いに被害がなかった。が工場の機能は完全に麻痺していた。田無町から来ている瓦斯管が、爆弾でやられると、専門に飛行機の發動機の氣筒管を製造していた工場は、製産の仕様がなくなった。行員たちは毎日、瓦斯管の復舊工事に働いた。復舊して明日から、ガスが出ると、喜んでいると、爆撃だった。
 工場の技師たちは、前から敗戦論者であった。科学的知識のあるものは、當然、そう考えたであろう。B29の部品を、戦利品の如く、工場内に並べ、工員たちの士氣を鼓舞しようと、軍が計画した。しかし、技師たちには、その部品がいかに良く出来ているかが手に取るように分った。そして、代わる代わる、院長室へ来て、悲観論を私に述べた。病院の院長室だけが、憲兵の目と耳のとどかぬ場所であった。八月十二日の朝私が工場へ行くと、向こうから庶務部長が馳けて来て、今日無条件降伏を受託したという確報が入りました、と言った。彼はニコニコしていた。私も何かホッとする思いで、うなずいた。
 その夜、近くの徳川夢聲老宅に出かけた。婦人と娘さん達は、原爆がおちるというウワサの日だから、浅川の方へ疎開しているということだった。老はひとりで原爆と戦うつもりだったのかと、可笑しかった。十三日の晩、私は妻、娘の疎開先の埼玉県の越生へ報告に行った。妻も私も、これで広島近くの八本松というところへ兵隊でヒッパられている倅が、無事で帰るという安心で心の片隅で浮き浮きするものがあった。十五日は病院一同で陛下のお言葉をラジオで聞いた。院長として私は、皆に何か言わねばならぬので,一同の前に立ったが、言葉は聲にならなかった。涙を流しぱなしにして、口をばくばくさした切りであった。
 虚脱状態が来た。これから日本はどうなるのであろう。どうなっても醫者という技術で行きて行けるだろうと、ボンヤリ、中庭のカンナを見ながら考えていた。
  ひたすらにカンナの朱に吸ひつく目


宮田重雄著 「竹頭帖」より 文芸春秋新社 昭和34年