竹頭帖「原爆記念日に」(昭和三十三年)

 原爆の十三回忌がやって来た。戦災の傷痕も殆どなくなったが、原爆だけは違う。今年になって、原爆で六十五人もの人が死んだそうだ.その他に、廣島や長崎にいただけで、常に死の恐怖におびえて生活している人が、どれ程いるか分からない。こんな悲惨な運命に、私たちをおとし入れた、アメリカの良心は、どのくらいさいなまれているか。アメリカの生化学者で、ノーベル賞受賞者のボーリング博士は、昨年来アメリカの科学者たち二千人に呼びかけて、原水爆禁止國際協定をつくらせる運動の先頭を切った。
 十二日から二十日まで、東京で開かれる原水爆禁止世界大會も、すでに第四回を迎えた。こういう世界の良心の聲をよそに、各國があえて、核兵器武装をし、原爆實驗をするのは、何とした矛盾であるか。
 私の息子は、終戦時に兵隊にとられて、廣島の手前十里ばかりの八本松と云うところにいた。そして廣島におとされる原爆を見た。整列していた兵隊が一瞬とび上がるほどのショックだったという。そして翌日、行軍して廃墟の廣島のあと片づけに使役された。暑い日で倉庫に残っていた、冷凍みかんなぞを、むさぼり食ったという。
 私は息子が九月に歸って來ると、すぐに病院で血液検査をした。異状はなかった。父子ともにホッとした。しかし今日にいたってなお原爆症で死んでゆく人たちの記事を、新聞で見ると、心平らかでない。それをみている息子の顔も、平常に似ず、暗い影がさす。
 いつだったか、「オレも長生きできんかも知れんぞ」と云った。
「そんなバカなことはないよ、もう心配いらんよ」と私は答えたが、何の自信もありはしない。たった一日、被爆の翌日、その場所で働いたというだけで、死の恐怖におびえなければならぬという運命に、はげしい憤怒を感じ、ただただ無事であってくれと祈る以外に方法もない。息子は幸いに元気で、この八月は友人たちと、南佛サントロッペに寫生旅行にゆくと巴里から便りを、いま寄こした。元氣で愉しく勉強して来いと、祈るばかりである。
「さつま」「拓洋」の兩船が、太平洋赤道付近で、放射能に強く汚染されたため、観測を中止して、七日東京に歸港した。東京ではその道の権威が集まって、船員百十三人の健康診斷を行う。
ワシントン四日發のAPは「拓洋」「さつま」兩船の乗組員は危険な放射能を受けていないと云う醫学的報告書を、米政府は日本の外務省に送った、と伝えている。この報告書は、オーストラリア、米兩國の検疫醫が作成したという。どうか、それが眞實で、一人の被害もなくあってほしい。(*)
そして何よりも、實驗を止めろ。


以上 宮田重雄著『竹頭帖』  文藝春秋社刊(昭和三十四年)より


*この翌年「拓洋」主席機関士が急性骨髄性白血病のため死去している。
−−−「観測測量船「拓洋」「さつま」被爆
昭和33年7月21日]南太平洋  船舶2隻被曝
7月21日、海上保安庁の観測測量船拓洋から、被爆により乗組員の白血球数が減少したとの報告が届いたため翌日、同庁は拓洋と僚船さつまとに帰国を指示、両船は8月7日、東京に帰港した(拓洋の乗組員のうち首席機関士が翌年8月3日、急性骨髄性白血病で死亡)。... (昭和災害史事典)

−−−海上保安庁の観測船拓洋の主席機関士、永野広吉氏が国立東京第一病院で急性骨髄性白血病のため死去。34歳。拓洋は前年7月、海洋観測で赤道海域を航行中ビキニ西方海上で米水爆実験の死の灰を浴びる。 
ヒロシマ平和メディアセンターヒロシマの記録1959八月」http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20100805094047719_ja&mode=print))
原子力年鑑 1960年」 137ページ「核兵器反対運動」の項にも「拓洋」の記述をみつけたが、こちらは原発推進側なので、主席機関士の死の直接の関連性には懐疑的な意見もある、という調子。
http://www.lib.jaif.or.jp/library/teiki/nenkan/nenkan1960.pdf

そして、亡くなったのは本当に一人だけなのか、その数年後に影響のあった方はないのか、と疑問に思いネット上調べたところ、以下のテキストを見つけた。

ビキニ水爆実験被災50年 2004年3・1ビキニデー「もう一つのビキニ事件」1000隻を超える被災船を追う/山下 正寿(高知県ビキニ水爆実験被災調査団)より抜粋:
「日本政府は1958年、ビキニ事件から4年後の7月、海上保安庁の観測船・拓洋、同巡視船・さつまを南太平洋に派遣し、国際地球観測年の調査にあたらせ た。7月14日夜から放射能が強まり、雨から10万8000カウントを検知した2隻は急きょ南下し、18日にラバウル港に避難した。日本への岐路、両船の 乗組員は白血球減少症が多発、帰国後の東京大学病院での検査で観測員が急性放射能障害と診断された。
http://www10.plala.or.jp/antiatom/jp/NDPM/Bikini/04bikini/Intlsymp/j_04bkn_yamashita.htm
原水爆禁止日本協議会 http://www.antiatom.org/

亡くなられた主席機関士の方以外にも、実際は多くの乗り組み員が被害を受けていました。また、この1950年代〜60年代初頭の数々の水爆実験でこれほどまでに日本の漁船や調査船が被爆していることなど、このサイトを読んで初めて知りました。その後の追跡調査や公的記録などは国によってはなされていず、(以下再び抜粋)「高知県ビキニ水爆実験被災調査団も11月 に再開し、「ビキニ被災50年」を風化させないための活動を開始した。特に、第二次調査は、因果関係立証に近づけるために、重要な被災船3隻に集中した。(中略)新生丸(安田・172トン)の乗組員については、同じ漁村から同じような船に乗り継いだ7名をグループとして追跡した。7名は1954年の南方海域 の操業中に白い灰を目撃し、東京入港したときに検査を受け、魚、船体、漁具に異常が認められたと全員が証言しているが、3月19日から4月1日までの公的 記録がぬけている期間に入港したとみられる。このグループはもう一度、1957年に第八達美丸などに乗ってサモア諸島海域で操業中に、クリスマス島の核実 験を目撃している。7名中生存者は1名であり、病死者6名(がん4名、心臓発作2名)中、50代が3名であった。生存者の1名も心臓近くの血管と胃の手術 をしている。なお、この新生丸は19名の乗組員が保険登録されており、死亡者は14名、生存者2名、不明者3名であった。同じ漁村からのマグロ船に乗らなかった70歳代の男性は全員元気であると証言している。第二幸成丸、新生丸の2隻だけでみると、乗組員のうち半数以上が40〜60歳代で死亡しており、あまりにも早い死亡率となっている。」
当時このように多くの水爆実験での被害があったにも関わらず、同時に日本は原子力発電開発に邁進していくのだ。
そしてまた50年後に福島原発の大事件へと連鎖していく。
何も解決していず、収束もしていない。
「人間の歴史を学んで分かることは、人間は歴史から何も学ばないということだ」 ヘーゲル